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「まむしの周六」よいずこ [社会時評]

「まむしの周六」よいずこ 

 「懐に入れてもマムシはマムシ」と言ったのは田中角栄だった。政治記者の本性をぴたり言い当てている。さすがは田中角栄だ。記者の側からすれば、相手の懐に入ったふりをして、いざとなればキバをむく。その毒で相手を倒しにかかる。「マムシ」と言えば、ずばり「まむしの周六」と呼ばれた男がいた。万朝報の黒岩涙香だ。食いついたら離れない、という意味でこんな呼び名がついたようだ。
 しかし昨今の記者はマムシの毒どころか、キバさえも持ち合わせていないらしい。相撲協会に捜査情報を流したNHK記者のことである。携帯メールの文面を見ると「既に知っていたらすいません」だと。なんでそこまで卑屈になるのか。
 少し話を変える。
 このところ、検察の威信が揺らぐ事態が相次いでいる。あらためて言うまでもないだろう。村木事件の完全無罪、証拠の改ざん、尖閣沖・中国漁船衝突事件での、那覇地検次席検事の発言、小沢一郎元民主党代表の強制起訴…。中でも大きいのは大阪地検特捜部主任検事(11日付で懲戒免職となり、正確には「元主任検事」)の改ざん事件だ。NHK記者の捜査情報漏えいで毎日新聞を読んでいたらジャーナリスト大谷昭宏氏による「記者としてのイロハのイであきれかえっている」とのコメントがあり、はてどこかで見たような、と思ったら証拠改ざんでも誰かが言っていたのだった。あれは「検事としてのイロハのイであきれ返った」事件だったのだ。
 そういえば特捜の不始末について検察内部から気になるコメントがひとつあった。「特捜が事件に着手すると世間もメディアもはやし立てる。だから特捜は自らを客観的に見ることができなくなる」というものだった。取材される側から見れば、メディアは鏡のようなものだ。鏡が曇ると自分自身が見えなくなる。では、それはどの程度曇っていたか。
 厚生労働省の村木厚子元局長に無罪判決が出たとき、新聞各紙は「検証記事」なるものを掲載した。この記事のなんとおざなりなこと。最も早く掲載した朝日新聞でさえ、内容は事実経過の報告にとどまっている。「批判には謙虚に耳を傾けたい」と言いながら、ではどうするかがない。毎日はたまたま村木元局長の言い分を大きく扱ったことを得意げに書くが、その先は見えてこない。読売に至っては「検察寄り否めず」と人ごとのような見出しをとり「供述転換 いちはやく報道」と弁明。何より疑問なのは、執筆者が社会部次長であることだ。日々の原稿のチェックを行う現場の人間が事件の報道ぶりを降り返って「検証」と言えるのか。これは「釈明」「反省」の類ではないのか。こんなことで「検察は解体的な出直しを」だの「第三者による検証を」だのと、よく書く。
 総じて、危機感がまるで感じられないのである。こんな体たらくだから「情報漏えい記者」も出てくるのではないか。だが、そのことをもって「記者も検察も、相撲協会もどっちもどっちだ」と言ってしまってはいけない。それでは解決にならない。
 村木無罪判決を受けて各紙が検証記事を載せながら歯切れが悪いのには、わけがある。「検察と被疑者の対等報道の難しさ」という技術的な問題もあるが、最大の壁は、結局はメディアが検察からの情報提供に頼らざるを得ない点だ。具体的に考えてみればすぐわかる。村木事件でどこかの社が「無罪」キャンペーンを張ったとしよう。検察の対応は簡単だ。その社の記者に捜査情報を流さなければいい。どれだけ正義の旗を振ろうと、捜査情報を取れない記者はだめな記者に決まっている。小沢元代表の「政治とカネ」では、検察側からのリークが相当あったとされている。そんな形で検察は世論を誘導する。先ごろ新潟市内であったマスコミ倫理懇談会全国大会でもこれが議論になり、全国紙の記者は「リーク」説を否定したとされるが、状況的にはかなりクロだ。
 では、こうした「取材対象と記者」の問題に解決策はあるのか。あれば楽だが、永遠にその妙案は見つからないだろう。すべては記者の倫理観と行動規範にかかっているといってもいい。だからこそ、NHK記者の行動は、おそらく事件化されることはないだろうが、始末が悪いのだ。懐に入ってキバをむくマムシのような記者はいないものか。

 

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