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「犬死」をした少女たち~映画「樺太1945年夏 氷雪の門」 [映画時評]

「犬死」をした少女たち~映画「樺太1945年夏 氷雪の門」

 五味川純平原作の「人間の条件」を見ていて、主人公の梶がソ連に抑留されるシーンがあった。梶は戦時中にもかかわらず社会主義に共感するインテリであったが、戦後のソ連の動向に少なからず失望する。仲代達矢が主演した映画だったか、加藤剛が主演したテレビドラマのほうだったか、もう随分前のことなので記憶は確かではない。当時、原作も読んでいたのでそれが記憶に残っていたのかもしれない。40年近くも前のことだ。
 はなはだ心もとないことから書き始めてしまったが、戦争が終わり、ファシズムのくびきを逃れて、しかし社会主義のユートピアのごとく流布されたソ連のイメージは、実際にソ連軍と対峙した日本人にとってはかけ離れたものであったろう。
 ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したとき、たしかにソ連が取った行動は日本人にとって許されざるものであった。なぜソ連は当時、日ソ不可侵条約を破って突如参戦するという道を選んだのか。これはヨーロッパ戦線での独ソ不可侵条約破棄にも通じる。
 素朴に考えれば、当時のソ連はドイツ、日本に巣くうファッショ勢力の根絶と社会主義圏の拡大を狙ったのではないか。具体的に言えばヨーロッパと日本の社会主義化である。ここに、国際法より優先すべき正義の戦いの根拠があると踏んだのではないか。結果的にはソ連のもくろみは、一部で実現したにすぎなかった(しかしそれも1989年のベルリンの壁崩壊で潰えるのだが)。
 戦争には正義の戦いとそうでない戦いがあるのだろうか。200912月のノーベル平和賞授賞式でオバマ米大統領も「正しい戦争がある」と述べている。「間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する(Evil does exist in the world)」というくだりで、オバマは「悪」の実例としてナチをあげている。オバマによれば「正しい戦争」ならやってもいいのである。第2次大戦当時のことでいえば、ナチに対する戦争が正しいなら、日本に対する戦争も正しいことになる(余計なことだが「悪」の実例として「ナチ」はあげられるが「ドイツ」はあげられない。しかし「日本」は特別な政治勢力の名称に置き換えられることがなく、いつも「日本(人)」として語られる。ここには人種差別=黄禍論のにおいがする)。降伏したにもかかわらずソ連が対日戦線に参戦した背景にも、こうした「正義の戦争観」「人種的な偏見」が見え隠れする。

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 さて、本題の映画の話である。終戦の前後、樺太・真岡で働く電話交換手の物語である。ストーリーは広島に原爆が落とされた8月6日ごろから始まる。
 9日には長崎に原爆が落とされ、同日から翌日にかけての御前会議でポツダム宣言受諾が決まる。ポツダム会議にはスターリンも参加しており、当然のことながら事態の推移は知っている。14日に連合国側へ「無条件降伏」が伝えられ、15日正午に玉音放送が流される。そしてソ連の本格的参戦は20日である。こうした史実と重ねると、映画で展開される物語の意味はよく分かる。どう考えても、日本にとってはしなくてもいい戦争だったのだ。
 志願して残った少女たちは電話交換業務を続ける。そして上陸したソ連軍による無慈悲、無差別な攻撃を目の当たりにして青酸カリを飲み、集団自決する。少女たちがあまりにもヒロイックに描かれているのが気になるところだ。先に書いたように、少女たちはしなくていい戦争で死んでいったのである。どんなに使命感を持ち合わせていようと、彼女たちの死は、酷な言い方だが「犬死」であったと思う。しかし、もともと「しなければならない戦争」などというのは、あるのだろうか(オバマは「ある」と言っているが)。もし「しなければならない戦争」がないとすれば、この映画の少女たちに限らずすべての戦死者たちは「犬死」ということになるのではないか。
 それにしてもこの映画、1974年に東宝系で公開予定だったがソ連の横やりで急きょ縮小して公開したらしい。暗澹たる思いがする。



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