映画の「行間」を描く~濫読日記 [濫読日記]
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「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」小津安二郎著
★★★☆☆ 「小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」は日本図書センター刊。1600円(税別)。初版第1刷は2010年5月25日。 小津安二郎は1903年東京生まれ。1963年没。映画監督。作品に「東京物語」「麦秋」など多数。世界的な名声を得る。 |
タイトルは、いかにも「職人」小津らしい。しかし、このタイトルが曲者だ。確かに、トウフしか作らないトウフ屋である。しかし、それは誰もがうなる「本物」のトウフなのだ。
小津のそうした審美眼はまず、人物観察に現れる。映画「お茶漬の味」。
――石川(欣一)さんはたくまずして社長なのだから、黙って座っていて社長の人柄だった。(略)床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ちだしたのと第一私の気持ちが変ってくる。出てくる俳優もそうだろう。(「小津安二郎芸談」)
――表情がうまい、というだけでは、いけないと思うんだ。(略)顔面筋肉の動きが自由自在だ、というだけではダメ、それならやさしいと思うんだ。(略)大事なのは性格だな。性格をつかむことだと思うんだ。(「性格と表情」)
にわか仕込みの味ではない、内側からにじみ出るような「トウフ」の味を求めていることが分かる。そして小津の小津たるゆえん。彼はトウフの味に「あわれ」を求めるのである。それは、小津の筆に従えばこのように語られる。
――七分目か八分目を見せておいて、その見えないところがもののあわれにならないだろうか。(略)小説なんかでいえば、行と行とのニュアンスというか、日本画でいえば、余白のよさというか、(略)どこかで何となく、そういうものを味わえるもの―ということなのです。(「映画への愛情に生きて」)
「麦秋」のように、結婚をテーマにしながら、結婚式のシーンがない。「東京物語」のように「上京」をテーマにしながら上京するシーンがない。それらは当然のシーンだから観客の想像力に任せるのである。そうすることでトウフはえも言われぬ「あわれ」を獲得する。だから小津は「理詰め」を嫌う。「理」より「味」なのだ。
――映画には、どこかで必ずしわ寄せがある。嘘がある。しわ寄せがなければ、劇ではなくてドキュメンタリーである。(略)こういうしわ寄せを突いてはいけないのだ。これが如何に巧みに胡麻化されているかということが問題なのである。(「映画界・小言幸兵衛」)
映画と同様に「味」のある文章である。
2010-07-09 14:09
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