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忖度政治・これはまた日本的な [社会時評]

忖度政治・これはまた日本的な 

忖度。日常、使うようで使わない。使わないようで使ったりする。微妙なニュアンス。手元の辞書で引くと「そんたく【忖度】[名・ス他]他人の気持をおしはかること」(岩波国語辞典)。これだけ見れば、なんだ、人間社会で欠かせない基本的な「作法」ではないか。しかし、この言葉に形容詞や名詞がくっつくとややこしくなる。

たとえば「忖度政治」。きょう3月24日付の朝刊やテレビのワイドショーでひんぱんに使われた。民主党の生方幸夫副幹事長をめぐる「解任決定→一転続投」での報道である。朝日新聞を見ると「一連の騒動も(高嶋良充筆頭副幹事長が)小沢氏の意向を忖度し、なるべくグループ内で決着をつけようとしたことから起きたとの指摘が党内にはある」(カッコ内はasaによる補足)。「党内で続く『忖度政治』が党内外の批判を受け、撤回を余儀なくされた」(いずれも「時時刻刻」から)。同紙は21日付社説でも「上に立つ者が考えを示さなくても、下の者がその意向を忖度し…(略)典型的な『側近政治』である」と書いている。

ここで使われた「忖度政治」。何か懐かしい…。そうなのだ。これこそ日本人の基本的なメンタリティーではないか。

「おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず『長いものに巻かれ』てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度」。これは内田樹がベストセラー「日本辺境論」の中で、丸山真男が天皇制での軍国主義イデオロギーを鮮やかに分析した「超国家主義の心理」の「定式」を紹介したくだりである。続いて内田は「同じメカニズムは現代日本でも活発に機能しています」と、現代人の行動原理でもあると書く。

もちろん、この論は内田の専売特許ではない。姜尚中との対談で森達也は、この心理を戦時中の天皇制にとどまらず近年のオウム事件にまで広げて見せる。ここまで来ると、たとえは悪いが民主党のごたごたぶりはオウム事件に酷似していることが分かる。

「でもやはり、ここでも『過剰な忖度的ダイナミズム』は、絶対に働いていたと僕は考えます。グルに寵愛されたいとの競争原理に駆られた複数の側近たちが麻原の言動を拡大解釈して…」(「戦争の世紀を超えて」)。

これは、固有名詞を外して読めば今の小沢一郎幹事長と民主党内をめぐる空気そのものではないか。戦中の天皇制以来、連綿と続く「過剰な忖度」。もういい加減に自立した個性が組織を動かす時代にならないのだろうか。しかし、間違えてもらっては困るのだが、今回の解任騒動で悪かったのは小沢の側近であり小沢自身ではない、ということが言いたいのではない。そういう「公」と「私」の混同もまた、かつての天皇制の得意とするところではあった。内田が言うように、「場」に漂う「身内」感が、論理的整合性より優先する(「理屈はそうだけど、分かるだろ、お前」みたいな感じだ)。民主党がそうした組織であるなら、問題点をあぶりだしたうえで改変すべきなのだ。

24日付朝日に載った世論調査結果を見ても「政党対決の枠組みが変わる政界再編が起きたほうがいいか」という設問に62%が「起きたほうがよい」と答えている。民主対自民の構図に対する不満がよく分かる。もう、小手先の対応では、政治不信のマグマは解消しきれないところに来ているということをよく考えるべきだ。


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