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これは「地獄の季節」だ~映画「ハート・ロッカー」 [映画時評]

これは「地獄の季節」だ~映画「ハート・ロッカー」 

 <ああ、肺が焼ける。こめかみが鳴る>

まぎれもない。これはランボー「地獄の季節」の映画版だ。

 

 始まると同時に、観客をバグダッドの最前線に投げ込む。その仕掛けはハンディカメラ、荒れた画質、揺れる映像。

米軍の爆弾処理班に着任したジェームズ二等軍曹は、いきなり度肝を抜く行動に出る。遠隔操作によるマシーンを拒否し、防爆服(というらしい)を着込んで直接、爆弾処理に向かう。ある時はその防爆服さえ脱ぎ捨ててしまう。「死ぬときには気持ちよく死にたい」―。ジェームズの行動は処理班の間で軋轢を生む。

戦争とは何か。戦争の恐怖とは何か。生と死がまったくの偶然によって支配される。敵意だけが、自分を取り巻いている。明日も生きているかどうかは、分からない。キャスリン・ビグロー監督はひたすら、そのひりひりする時間を追っていく。荒野の落日だけが美しい。

これは反戦映画なのか。それともアクション映画なのか。そのどちらとも違う気がする。このことを指して沢木耕太郎は<まったく新しい戦争映画を見ているのかもしれない>と書く(3月9日付朝日新聞)。

ジェームズの行動はなんだろう。あまりに多くの恐怖を抱えてきたがために、恐怖は麻薬となってしまったのだろうか。前線から戻ってきたジェームズは既に市民生活になじむことができなくなっている。彼は再び前線で防爆服を着込む。そして「死の町」を颯爽と歩く。映画の冒頭に出てくるエピグラフが頭をもたげる。「War is drug」(戦争は麻薬)なのだ。

 

アカデミー賞を争った「アバター」と、<戦争>という軸で比較するとまるで正反対の作品と言える。その位置関係で見れば監督賞や作品賞をこの作品が取り、「アバター」が撮影賞など技術部門にとどまったのは妥当と言える。映画の原点を押さえたのは「ハート・ロッカー」であり「アバター」は映像の邪道に走ったと思うからだ。

そのうえでなお分からないのは、米国社会がこの映画をどのような社会的文脈で評価したのか、ということだ。ベトナム戦争の時代の反戦映画は、厭戦気分が底流にあった。その「気分」も、それ以外のいかなるメッセージも拒否した地点で、この映画は成り立っている。

もっと直截に分かりやすく言い換えよう。この映画にアカデミー作品賞を与える米国社会はいま、どのような座標軸にあるのだろうか。


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