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世界はなぜかくも殺戮と平和を同時に語るのか~濫読日記 [濫読日記]

世界はなぜかくも殺戮と平和を同時に語るのか~濫読日記 
 

「戦争の世紀を超えて」(姜尚中・森達也著)
 
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 ★★★★

 「戦争の世紀を超えて」は集英社文庫、724円(税別)。初版第1刷は2010年2月25日。

姜尚中は1950年、熊本市生まれ。東京大大学院教授。専攻は政治学、政治思想史。著書に「日朝関係の克服」「愛国の作法」「在日」など。
 
森達也は1956年、呉市生まれ。1998年にオウム真理教を取り上げた映画「A」を、2001年に続編「A2」を発表。現在は活字による批評活動が中心。

 













 副題に「その場所で語られるべき戦争の記憶がある」とある。姜尚中と森達也が世界の戦争の跡をめぐり、対話を重ねるという企画でこの書は成り立つ。姜は自ら語っているように「ブッキッシュ」な発想。森は映像から文字へとステージを変え、批評活動を行っている。姜の言葉でいえば「森さんは場に感応するタイプ」ということになる。年齢でいえば6歳、姜が上だ。2人とも、いわゆる「戦中派」ではない。この取り合わせは、何かを期待させる。

 旅はポーランドから東京、朝鮮半島へと向かう。最終地は広島。

 2人はまずイエドヴァブネの惨劇を語り始める。ポーランドの静かな一つの村。ここで何が起きたか。ポーランドの普通の人々がユダヤ人の大量虐殺に走ったという。恥ずかしながら、この村の名前を知らなかった。ユダヤ人がソ連と通じているのではないか、という恐怖心が事件の発端のようだ。村はポーランドの東北、つまりソ連に近い地域にある。そこからクラクフの西、アウシュビッツを見る。整然として組織的なアウシュビッツの虐殺。恐怖心の中で決行され、終わった瞬間に呆然とするイエドヴァブネの住人たち。姜はこのように語る。

 <イエドヴァブネの虐殺の場合は(略)国家によって国家の名のもとに実行される殺戮とは違いますよね。僕が見たいのは、殺戮が仕事となり、業務になり、それが日常の風景になる。そうさせるのは何なのかということです。

 それがわかったとき、僕はアウシュビッツへの道が、開かれていくと思うのです>

 <十九世紀までは人権という考え方はまだ定着していなくて、二十世紀のヒューマニズム時代になって大量殺戮が繰り返されている。それはなぜなんだろうか>

 これに対して森は「害虫駆除と一緒ですね」と応じる。「絶対他者」を殲滅するという思想。「絶対的他者」は、原爆を投下した米国の、日本への視線でもあったと思える。

 < 自由とセットになったヒューマニズムの怖さと可能性があると思う。

   言い換えれば、善を抑止できるのも善なんです。なぜなら戦争の本質は、善対悪の構図ではなく、善対善の戦いだから(略)。

 イエドヴァブネの事件も(略)自由意思がなかったらやっぱりそれはできなかったと思うんです>

 この後も展開されるイエドヴァブネとアウシュビッツをめぐる2人の対話は、かなり深い。そのうえで森は、ホロコーストが強引なユダヤ人国家の建設につながり、中東戦争を招き、湾岸戦争や9.11までつながるという。つまり<ホロコーストは終わっていない>という。

 もちろん、ホロコーストはナチス・ドイツの所業である。しかし、森はこう語る。

 <アンチセミティズム(反ユダヤ主義)やユダヤ人差別は、全ヨーロッパにおける歴史的な現象でした。だから第二次大戦後にアウシュビッツで行われていたことが明らかになったとき、全ヨーロッパはある意味で委縮した。つまり後ろめたさを抱えてしまった>

 この認識はジャック・アタリ「1492 西欧文明の世界支配」とも共通する。

 この地点から姜は一つの提案をする。

 <東アジアでは戦争が我々の世紀を超えていない。(略)『我々アジア人』と言えずにいる。ヨーロッパでは(略)アウシュビッツの負の記憶と向き合うことで初めて、ヨーロッパの『入場チケット』が出てくる。『我々、ヨーロッパ人』と言えるようになった>

 <ただ残念ながら、まだ広島は、あの戦争とかかわったアジアの多くの人々にとって、アウシュビッツのような『入場チケット』にはなっていない。つまり、広島や日本の国民が考えているほどには、アジアでは、この広島は『世界的なもの』になっていないということです>

 朝鮮戦争では、400万人が2年間で亡くなったとされる。中国での15年戦争で日本軍の死傷者は250万人だった。なぜあれほどに、同胞で殺し合いが可能だったのか。その一端は最近ではD・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」で明らかにされている。

 < 朝鮮半島の膨大な地主層、これを日本は温存させ、そして彼らの権益をいわば擁護していくわけですよ。(略)悲惨な状況が出てくると、地主に対するすごいルサンチマンが出てくる。(略)そのうえに日本の支配がかぶさってくる>

 < 日本の植民地支配で生まれた憎悪が、同族で殺し合うという朝鮮戦争のダイナミズムの一つになったことは確かですね>

 エピローグで姜尚中が書いている。どんな解説よりも、彼のこの言葉が「戦争の世紀」を言い当てていると思える。

 <人はなぜかくも膨大な殺戮を繰り返しながら、それでも平和を語り、美しいヒューマニズムに憧れるのかということである>

 ヒューマニズムとルサンチマン。善意と自由意思による殺戮。このメカニズムを超えるものは何か。

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある (集英社文庫)

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある (集英社文庫)

  • 作者: 姜 尚中
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2010/02/19
  • メディア: 文庫


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