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ジャーナリズムの「原型」を守りたい~濫読日記 [濫読日記]

ジャーナリズムの「原型」を守りたい~濫読日記 

「いま、立ち上がる 大転換に向かう〝弱肉強食〟時代」(斎藤貴男著)

 いま、立ち上がるのコピー.jpg★★★☆☆

「いま、立ち上がる」は筑摩書房刊、1700円(税別)。初版第1刷は20091210日。斎藤貴男は1958年生まれのジャーナリスト。新聞記者、週刊誌記者を経てフリーランス。著書に「『非国民』のすすめ」など。
 













 フランスの哲学者であり政治家でもあるジャック・アタリ【注】の「21世紀の歴史」を読むと、未来社会の構図が描かれている。いくつかある章のうちの一つは「帝国を超える<超帝国>の出現」として、国家を上回る市場規模の出現を予言する。
 「予言」と書いたが、既にこれは現実のものになっているといっていい。例えば企業は国家の枠を越えて資本を流動化させ、その結果、GDPはそのまま労働者の生活の糧にはつながっていない。おそらく今日言われている格差社会の背景にはグローバルな企業活動と資本の流動化があるのだと思う。これが、統合された市場の、国家の枠を超えた無政府主義的な動きにつながっている。具体論を出すまでもないだろう。「リーマン・ショック」に端を発した経済恐慌を見れば分かる。
 グローバルな市場と企業活動の出現は国家機能の代替につながる。アタリの見立てである。これは個人の生活に何をもたらすか。「超監視体制」と「自己監視体制」だとしている。監視社会と情報の統合化が民間企業による公共サービスの代替を生む。あらゆる社会的なリスク、例えば失業、盗難、火災、災害は保険によって補われる。国家が市場の前にひれ伏したとき、社会的な規範は保険会社によって強制される。これが「21世紀の姿」だとする。そう遠い未来ではない。既に一部は現実化している。個人データの統合、民間による監視社会の出現…。これを自然の姿とみるか、ゆがんだ姿とみるか。
 「お前の反権力は紋切り型だと指摘されることがある」と、斎藤貴男は「いま、立ち上がる―」の中で書く。そしてこう続ける。「権力批判の物言いがステレオタイプになりがちな自省は絶えずあるものだ」。この「自省」を、かなり好意的に受け止めている。逆にいえば、紋切り型でもいい。言うべきことをキチンと言うジャーナリズムが今、消滅しかかっているのではないか、と思うのだ。
 アタリの著書を冒頭に持ってきたのはほかでもない。斎藤が正面から切り込もうとしているテーマは、アタリが指摘した「格差社会」と「監視社会」と、その結果として弱者を切り捨てる社会のありようである。
 例えば「ストリートビュー批判」は、インターネット検索エンジン大手「グーグル」による街角実写映像の提供を批判する。そうしてこう続ける。「事態の深刻さに照らして、しかし、日本のマスコミはあまり強い反応を示していない。特に一般紙は、それなりに問題点を整理して報じてはいるものの、賛否両論を併記するばかりで、自らの判断を放棄している記事ばかりが目立つ」。もちろん推進論も、世の中にはある。「反発してる人って、そんなに人に見られたらまずいことやってるんですかね」。これに斎藤はこう反論する。「いいかげんにしてもらおうではないか。人は誰でも尊厳とか魂を湛えながら、それぞれの生活を営んでいる。こんなものの慰み物にされなければならない筋合いなど、断じてないのである」。そうなのだ。これが正論というものなのだ。
 「社保・住基カードという国民総背番号制が始まる」の章。社会保障カードと住民基本台帳カードを統合しようとする動き。これを一面トップで報じ「何か素晴らしいことでもあるかのようにはしゃぎまくる『日経新聞』」-。「そんなことと引き換えに、私たちは大切なものを失う」と、斎藤は警鐘を鳴らす。「私は番号ではない。あんなものは人間として許されない」という、ある学者の言葉を添えて。
 「ベーシック・インカム」という考え方がある。あまり知られているとは言い難い。全国民に基本的な生活ができるよう、収入を保証しようとするものだ。もちろん異論もある。だが、今日のようにグローバルな資本の暴虐が個人の生活を脅かし、それに対して国家がなすすべを持たないとき、こうした形の保障を導入すべきかどうか、きちんと議論すべきであろう。著者は「グローバル・ビジネスの価値観を絶対視した構造改革下の国家システムと鋭く対立しかねない部分があるからではないか」と書く。この問題はもっと深い議論が必要だ。
 このほか、各種民間保険の肥大化、裁判員制度の問題なども取り上げる。しかし、これらの問題の背後に、斎藤はあるものを見ている。それは「瀕死のジャーナリズム」の現状である。例えば「大新聞よ、新聞事業を貫かないのか」の章。朝日新聞社長の「新聞事業を生き残らせるための複合メディア企業になり得るかどうかが課題かと」という発言を取り上げて「不動産やデジタルのアガリで趣味としての新聞を〝発行させていただく〟。そんな〝ビジネスモデル〟の下では、新聞は一般の大企業とは異なるジャーナリズムの価値観を貫けなくなる」と反論する。「新聞も雑誌も、真っ当なジャーナリズムは、それだけで商売にもならなくてはならない。今こそ日本の民度が問われている」とする。
 ある場所で評論家の立花隆が「ジャーナリズムは社会が必要とする限り生き延びる」と語っていた。少し乱暴な言い方だが、逆にいえば、社会が必要と思わなくなった時、ジャーナリズムは死にゆく運命にあるのではないか。それも「民度」というものであろう。
 斎藤が著書の末尾で書く「権力にすり寄ることイコール現実的なスタンスだと強弁して恥じない人々が多数派になってしまったジャーナリズムの世界への絶望に近い失望」という言葉が重い。

21世紀の歴史のコピー.jpg 
 【注】1943年アルジェリア生まれのフランス人。ミッテラン政権で大統領特別補佐官。ヨーロッパ復興開発銀行の初代総裁。サルコジ大統領の命で2007年「アタリ政策委員会」を発足、フランス改革の政策を提言。思想家、作家でもある。「21世紀の歴史」は作品社刊、2400円(税別)。初版第1刷は2008年8月30日。
 
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